ポケットの中にーhiroko illustration 展「石ころ」 [アート]
ポケットの中に入っているドングリや葉っぱは子供にとって大事な宝物。
もう忘れてしまっていたけれど、ドングリには椎の実も櫟の実もあるんだよ。
この絵を観ていると、忘れていた宝物のことがどんどん思い出される。
hirokoさんは子供の心をたくさん知っている。
こんな宝物をポケットに入れたあの日の幸せ。
戻れないたくさんのことがある。
遠い目をして思い出してみる。hirokoさんの絵があったから。
草原に寝そべってーhiroko illustration展「石ころ」 [アート]
ゲンゲの野ーhiroko illustration 展「石ころ」 [アート]
石と櫛ーhiroko illustration 展「石ころ」 [アート]
hirokoさんの今回の個展「石ころ」には彼女とおばあちゃんの心温まるエピソードがあります。
そのエピソードにむけて児童文学の松原喜久子さんが文を書いてくださいました。この文をお読みの上でhirokoさんの絵を観ていただくとさらに深く作品に入っていただけると思いますので、以下に書かせていただきました。
ヒロコさんの石
道端で小石を見つけるのが難しくなりました。
そうねえ。
どこも舗装の道ばかりですもの。
子どもの頃は都会の中心部を除いて、多くが土の道でしたから 道端には草々が繁り、石、石ころがどこにでもありました。雨 が降れば、水溜り、ぬかるみです。そんな石ころ、草々、水溜 り、ぬかるみもまた、子どもたちの遊び相手、仲間でした。
学校帰りも遊び帰りも、草を引いて互いの首筋をくすぐった り、小さな実を齧ったり、上手に口で鳴らしたり。水溜りも避 けるどころか、わざわざ踏み入れて、ピシャリ。泥水を跳ね上 げてはしゃぎました。快感。
少しくらい足もとを汚して帰っても、玄関先か裏口でささっと 拭えばそれまで。当時の多くの家は、そのくらいの汚れは目立 たない暮らしだったのです。
どこにでも転がっていた石、石ころは、とりわけよき遊び相手 遊び仲間でした。
小さい石、丸い石、平らな石。
人さまにぶつけたり、田や畑、よその敷地に蹴り入れるのは、子 どもの遊びでもルール違反でしたが、蹴るという動作は楽しみ 互いに競う石蹴り遊びの石は、土の上を滑るによい平らな手ご ろな石を選び、気に入りをポケットや引き出しの隅に納めてい ました。
遊び相手のない折りも、石はひとり遊びの相手で、ヒロコさん は家への帰り道、出会った道端の石を蹴り蹴り帰られた記憶の 持ち主です。
ひとつの石を途中で見失わないよう、川や側溝に落とさないよ う蹴り続けて、無事家まで。その満足の気持ちのままに、その 石をおばあさまにプレゼントされたのです。
手から手へ。
渡した手、受け取った手。 ともに何気ない日常のひとときの動作だったでしょう。
「 はいっ」
「 ありがとう」
場面も浮かびます。私も負けないおばあちゃん子でしたから。
ヒロコさんの一年生の頃、おばあさまは旅立たれ、石の記憶は 一旦閉じられてきました。
時が流れて、
「あの世まで 持っていきたし 石と櫛」
お佛壇の引き出しから見つかったおばあさまの文字。
ヒロコさんの記憶の扉、思い出の扉が開きました。
櫛をプレゼントされたのは、年下の従弟さん。石がヒロコさん で、櫛が男の子というのもいいわ。
「 持っていきたし」
と思われたとき、石からも櫛からも何かがふっと立ち昇って、 おばあさまの内に忍び入ったに違いありません。あの世まで道 連れになりましたよ、きっと。
いいお話ですね。
そんな思いが今回のヒロコさんの世界です。
ヒロコさんは私の子ども世代で、私はあの世まで持っていきた いものを巡らせています。
平成三十年 秋 松原喜久子
みどりの野ーhiroko illustration 展「石ころ」 [アート]
hirokoさんの描く世界は小学生にあたる年齢の子供であることが多い。
いわさきちひろが就学前の子供であるのに対しそれから上の子供ということになる。
ちひろの子供達だって子供なりにたくさんのことを感じ考えている。
hirokoさんの子供達も少し大きくなった分成長した感じ方や考え方をしている。
子供はいつでも笑っているわけではない。むしろ笑っていない時間の方が多いのかもしれない。
だからといって泣いたり怒ったりだけではない。日常の子供は彼らなりにいいことも悪いことも考えたり、案外ぼーっとしていたりもするものです。
hirokoさんの絵には子供のリアリティがある。
できれば子供には笑っていてほしい。
少なくとも深い不条理な哀しみだけは味あわせたくない。
それはhirokoさんの絵にそれは無い。きっとhirokoさんの願いでもあるのだと思う。