アフリカの色ーGoki & Artists 2018 Autumn [アート]
このコーナーを設営していると、なんだか色に共通性があって・・・なんだろうなぁと考えてしまった。
まだ行った事は無いけれど、アフリカの大地のイメージの色だと思いました。
長く太陽に照りつけられて乾いてしまった大地の色。
それは決して「夏」ではなく「夏」を通って来た「秋」に通じるような気がしてきました。
成長の後で少し疲れ次の成長にむけてしばしの休みを取っている季節。
アースカラー。
太陽に負けないビビッドな色のあとは優しい地球の色がいいのですね。
奥に見えている谷口広樹さんの絵の建物はアフリカの人々が土をこねて作った素朴な家に見えてしまうのは私だけでしょうか。
秋らしくなってきましたーGoki & Artists 2018 Autumn [アート]
安西水丸さんが愛した鳥取への旅②ー日本一危険な国宝 [アート]
エッセイ「鳥取が好き。」で水丸さんは投げ入れ堂は素晴らしいが、登らずに下の遥拝所から見たと書いていました。それでも素晴らしかったと。
「日本一危険な国宝」とキャッチコピーがそこら中で目に付く。
調べてみたら遭難したり滑落事故で亡くなった人もいるので服装、特に靴のチェックは厳しいと。入山記録もしなければいけないとあった。
もうハナから登る気はさらさらなく、水丸さんのように遥拝所から見るつもりでいました。
「投げ入れ堂」は、三徳山三佛寺の奥之院。
とりあえず、本堂に行って様子だけでも見てこようと、山門を目指す。
三佛寺の受付の人に恐る恐る「投げ入れ堂に登るのは大変ですよね。私なんかとても登れやしないですよね。」と聞くと、「誰でも登れますよ。大丈夫です。少し大変だけど、大変な思いをしたあとに見る投げ入れ堂は本当に美しいです。是非登ってください。最近で一番高齢の方は90代の方でした。」と。登山靴なんか当然の事スニーカーさえ履いていなかったのだから「でも靴が」と食い下がると「草鞋が一番。しかも靴下なんか履かずに素足に草鞋だとこの山は歩き易いです。」と。何だか登れそうな気がしてつい入山手続きをしてしまった。
三佛寺の入り口から長い石段をあがり、途中本堂にお参りして登山事務所にて最後の服装と靴のチェック。素足に草鞋という拵えをする。
いざ登り始めたらもう何も考えられない。とにかく上へ上へとあがるしかない。あとで地図を確かめると大小合わせてお堂は最後の投げ入れ堂を含めて9つ。
後を追う人戻ってくる人。ラッシュというわけではないけれどそこそこの人だったので写真を撮ったりするのは憚られるなと思ったのは始めだけ。そのうち人々を気遣うといより自分の体力に余裕が無くなり道順すらあまり記憶に無い。
だいたい木の根や幹を掴んでよじ上っていく様相。ついには3、4メートルの岩を鎖に捕まって登った
り。
そういえばこの鎖のところまで来たら7割と受付で言われた事を思い出し、やっとの思いで登りきると重要文化財の「文殊堂」。これだって岩の上に建てられていて断崖絶壁にせり出すように建っている。手すりも何も無い縁側を回るのが修行だそうで、へっぴり腰で回ってみた。
「文殊堂」からの絶景。
それはそれは美しく、ここで終わりでもいいのになぁ。
いやいやここまで来たのだから「投げ入れ堂」に行かなくては。
「文殊堂」は2つ目のお堂。あと7つ。
次はやはり重要文化財の「地蔵堂」
もう余裕は無いのでここはお堂にあがって回るは省略。
次の鐘楼だけは鐘をついてあとは省略でただひたすら歩く。(このあとはあまりきついのぼりは無い)
それでも力の無くなっている足は気を抜くとちょっとした事ですべる。気を抜かないようにいくつかのお堂を通り「不動堂」の裏を通る。ここは胎内潜りの様相。
そして岩場を滑らないように歩いて角を曲がると、そこには「投げ入れ堂」があった。登り始めて1時間半くらい建ったころだったろうか。
一瞬これは本当に「投げ入れ堂」?と思う。写真では何度も見ているのに、こんなにあっけなくあるものなのだろうか。でもこれは「投げ入れ堂」とわかった瞬間「あった!」と大きな声で叫んでしまった。
私の前には何人もの人がここを目指していたけど、叫び声は一度も聞いていない。なんでみんな冷静でいられたんだろう。思わず感動を言葉にするってことはないのだろうか。
「投げ入れ堂」静かにそこに佇んでいた、凛として。
神々しいというのは(仏様だけど)こういうことをいうのだろうか。
形の美しさがあるからなのかそうでなくてもなのか、圧倒的な何かがあった。
2016年の鳥取中部地震のとき、修験道は崩れてしまい今回の道は新たに作られた道なのだそうだが、「投げ入れ堂」はびくともしなかったのだそう。
ここまで登るだけでも大変なのに、どうやってここにこのお堂が建てられたのだろうか。なんていうことは後から思う事だった。
お堂の中に入る事はできない。ここまでしか行く事もできない。(一枚目の写真を撮った場所)
しばらくそこを離れることができなかった。
確かに「大変な思いの後の投げ入れ堂」は本当に感動だった。
この私が登れたんだから「誰にでも登れる」のだろうが、遭難や滑落で命を落とした人もいるのだから厳しい山でもあった。ここは役行者の修験道。よくこんな半端な気持で行って登れたものだと今では思う。
あの日は最高の天気だった。よく考えたら、天候が少しでも悪いと入山できない。登る気で行く用意をしたってお天気が言う事を聞いてくれるかどうか当日までわからないのだ。事実、次の日は台風21号の上陸で三徳山だけではなく日本中が大荒れで私たちは名古屋に帰る事さえできなかったのだから。
水丸さんが登らせてくれたんだと思う。「自分のかわりに登れ」と。
水丸さん、ありがとうございました。美しい「投げ入れ堂」間近に見てきましたよ。
花井正子ーGoki & Artists2018Autumn [アート]
「Goki & Artists」シリーズでは花井正子さんの作品が度々登場します。
何か同じ空気感を持っているような気がします。
ファッションではこの服とこの靴は合うけどこの服とあの靴は合わないということがあって、それは割と理解し易いセオリーがあるのだけど。
服と絵の間にもセオリーとまでは言い切れないのだけど、合う合わないはある。
特に花井作品とGokiの間には精神性に通ずる物があるような気がしてならない。
ある種のストイックさをこの二者の間にはある。
だからどうしてもこのシリーズでは花井作品が登場するのだと思う。
「Goki & Artists」は展覧会です。
「これはブティックですね」と言われる事が多いが、プリズムは展覧会としてコンセプトを作り美しい空間を目指して構成している。
そんなところも見てくださると嬉しい。
安西水丸さんが愛した鳥取への旅①ー吉田璋也と民芸 [アート]
左から 鳥取民藝美術館・たくみ工芸店・たくみ割烹
安西水丸さんが亡くなられてもう4年がたってしまった。
まるでまだお元気で「ご挨拶代わりだよ」と言わんばかりに「鳥取が好きだ。」が届いたのは夏の初めだっただろうか。その日から早く鳥取に行きたいと焦がれ、とうとう先日行ってしまった。
「鳥取が好きだ。」をずっと身近において眺めていたのでこの旅は吉田璋也を巡る旅になりそうな事も予想はついていた。
吉田璋也
その人はもう100年以上も前に生まれた人で、柳宗悦の民藝運動に共感し鳥取の民藝の父的存在だ。
鳥取の窯元、特に因州焼中井窯のプロデュースを始め焼き物・木工・織物など鳥取の民芸品にまで幅広く手を入れた人です。ただデザインだけに手を入れたのではなく売る場、使う場のプロデュースまで、つまり最後の部分までちゃんとシステムを作ったのだ。
上の写真の建物3軒。
真ん中の「たくみ工芸店」では作った「物」を売る場を作った。
この店は大成功してほどなく東京銀座に「銀座たくみ」を開いたほど。
水丸さんはここで始めに鳥取民藝に出会ったのだとか。
しかし、売るだけでは物は広がっていかない。デザインは使ってみなければ本当のよさは理解できないのだから。ということで「たくみ割烹」を作り、「物」を「使う」を実践することになる。これが一番右の建物。
一番左が「鳥取民藝美術館」
東京駒場が「日本民藝協会」の大本山みたいなもので柳宗悦の民藝運動がもとになっている。
もちろん「鳥取民藝美術館」もその所属になる。
愛知にも豊田に素晴らしい「民芸館」があるのでそちらも行ってみてほしいと思います。
「鳥取民藝美術館」は今までいくつも見た民藝館の中ではかなり「箱」としては小さい。
一階が吉田がプロデュースした民藝品。
二階が彼が世界中から集めた民藝品。
3つの施設は私たちのような旅行者のための物ではなく、鳥取の人たちのためのもの。
だから、売っている物も展示している物も使っている物も鳥取の物だけで構成されているのではなく日本中の民藝品がある。
「鳥取民藝美術館」ではどれも撮影OKでしたが、これは書籍などもたくさん出版されているのでご興味のある方は調べてください。できればお出かけください。
「たくみ工芸店」は現在も営業中なので店内の撮影は遠慮いたしました。
「たくみ割烹」
これは実際に使える美術館というコンセプトで吉田が作った飲食店。
このコンセプトにプリズムはいたく共感するのです。展覧会ではありますが、「使える」をコンセプトにした「森正洋展」を今でも誇りに思っているからです。
実はブログを始めSNSで食べ物を投稿するのは最小限にするのが私のモットーなのですが、今回は店のコンセプトを考えると出すべきかと思い以下特例で書きます。
水丸さんが愛した鳥取で必ず食べたと言うカレー
カレー皿(延興寺焼)小鉢(砥部焼?)グラス(沖縄ガラス)
箸袋は吉田が中井窯をプロデュースした基本的な染め分けがモチーフになっている。
ちなみに、このデザインの器を1枚待って前廊としましたが人気が高く1枚も買える物はありませんでした。
カレーは一階の椅子席(どの家具も鳥取木工)で鳥取駅から直行していただきましたが、やっぱり2階のお部屋でもと思い別日に再度予約しました。
照明器具も吉田のプロヂュース。
襖の引き手も吉田がプロデュースした鳥取木工
この座卓も吉田プロデュースだと思われる。
大きな花入れはオブジェとして。(どこの焼き物かは聞きそびれましたが、小鹿田焼と思われる)
奥(小鹿田焼)手前(牛の戸焼)
(山根窯)
(宮内窯・島根)
「すすぎ鍋」
これは「しゃぶしゃぶ」の元祖なんだそうです。何処かの国の食べ方を参考に吉田は料理までプロデュースしたということになります。もちろん鍋のデザインも。
これが吉田プロデュースの始め。最大のヒットデザイン中井窯
片口だけではなく皿、マグ、鉢・・・どんな食器もあるのではないだろうか。
最後は仁風閣
明治建築の宝。
鳥取城主婦人のために建てられた物ですが、これは吉田が設計したのではありません。
この建物の保存に尽力をしたということです。
イラストレーターであった安西水丸さんが吉田璋也の存在をリスペクトしていたのは明白だが、水丸さんが好きだった鳥取民藝にはことごとく吉田璋也の影が付きまとっていたというのが本当のところなのじゃないだろうか。